ある男

f:id:hiyori-joy:20221216223749j:image

確かに人は多面的なんだと思う。そんな自分も、こんな自分も、どれも本当の自分ではある。

 

ブログを書き始めたのは、いよいよ自分を変えなきゃ生きるのが困難だな、と思った時に通っていたカウンセラーに軽くお勧めされたからだった。

 

SNSで、沢山の人の発言や文章を読んでいると、同じものを見ていても、人によって受け取るものが違っていて驚く。それは、人それぞれ全く違う生き方をしてきたからなんだろうな、と思う。

 

この夏、義務のように芸能人の活動をずっと追いかけていたら、少し苦しくなってしまった。同じ芸能人を見ていたはずなのに、SNSにはファンの喜びや幸せや感謝や賞賛が溢れていて、自分の気持ちのやり場に困る。

 

多分、ファンの中には私と同じように、彼の中の苦しみを感じ取っている人が少なくない。でも、大人のファンたちは、見るべきではないものは発信せず、静かに見守っているのだと思った。韓国の芸能人がファンに向かって「愛してます」というのが好きじゃないのだけど、この視点で彼を見つめるファンの気持ちは、愛なんじゃないかな、と思って見ている。彼女たちの冷静さを、ちょっと尊敬してしまうほど。

 

 

 

 

彼の活動をずっと見ていたら、私には彼の苦しみや心細さや健気さが透けて見えてきて、全く楽しくなくなった。多分、彼が発信する情報量の多さが、そういう気持ちにさせるのだと思う。彼は自分の気持ちが全然隠せないほどに素直な人だろうし、そして、その悲しみや苦しみは、隠せないほどに大きいのだと思う。

 

私と似た視点で人を見ていることの多い友だちは、彼のことを「目が1ミリも笑ってない」「(彼の心が大丈夫じゃないことは、顔を)見ればわかる」と言う。そして、彼を応援するのは、かなり重い内容のドキュメンタリー番組を見ているようなものだと思うよ、と言われた。私も実はそう思う。

 

そんな背景を知らなくても、彼らの音楽は素敵だし、私の生活を彩ってくれる一つであるのだけど、ドキュメンタリーと共に提供される一曲一曲は、胸に迫って、感動とはちょっと違う不思議な気持ちにさせるのだ。本当に、親族でもないのに、何なんだろうか、この身内感は。

 

 

 

 

 

そんなことを考えあぐねていた時、ある動画を見た。彼がトロッコに乗って、ファンの間を歌いながら進んで行くと、一万人ほどの人たちが、彼の動きに合わせて波打っていた。あ、彼は大スターだったんだった、と思った。うっかり身内感を感じてしまったが、世界中でファンを喜ばせるスターだったんだった。そう思うと、少し冷静になれた。危なかった…

 

 

きっと、彼は苦しみを抱えて生きる人でもあり、歌うことに幸せを感じる人でもあり、ファンの存在に励まされもするし、悩んだりもするんだろうと想像する。当たり前だけど、人は多面的なものだと思うし、何より、私が悩むべきことではない。

 

でも、社会で苦しむ人を描いたドキュメンタリーを見ることが出来ないタイプの私は、彼の歌を聴く度に、やっぱり苦しくなると思う。